硯を描く


   上

 石あっての硯である。石なるが故に硯は私を誘う。石でなかったら歴史だ

とて乏しいであろう。硯は石の恵みに活きる。

 人は鉄硯を作り、銅硯を作り、漆硯を作り、陶硯を作り、木硯を作り、竹

硯を作った。だが凡ては徒労に近い。石あっての硯である。何ものも石の佳

さを侵すことは出来ない。硯は石であるがために尚美しい。


 石は神の御業である。人のよく造り得るものではない。凡ては恵みである。

硯を用いるのはその恵みを受けるのである。それを愛するのは、その恵みを

敬うのである。硯を求めて石を追うのは、造化の妙を探るのである。自然の

不思議を味わうのである。幾度か溯って智慧と技巧とは泥土から硯を生もう

と欲した。だがその驚くべき泥硯も遂に天然の石材に優ることは出来ぬ。さ

かしい人智も神の叡智の前には尚小さいのである。硯を訪ねて石に帰るのは、

神の智慧に帰るのである。神の御業を素直に受け容れずば、硯に適う硯に逢

うことは出来ぬ。硯を有つことは自然を信ずることである。


 だが凡ての石が硯に適うわけではない。或る者は玉硯を作り、或る者は瑪

瑙硯を作り、又翡翠硯を作った。だがそれは畢竟遊びに過ぎない。美しい石

が直ちに佳い硯とはならぬ。硯は硯たるべき石を求める。用をおろそかにし

ては、正しい硯を得ることは出来ぬ。

 磨墨、下墨、発墨、これ等の条件に適わずば、硯たるの資格を失う。硯は

石の中の石を選ぶ。ここで鋒鋩がなくてはならない資質である。その硬軟、

精粗、疎密の度によって良否の別が起こる。硯とは充分に準備せられた石を

いう。硯石の妙は一に大能の摂理である。硯を用いて人は偏えにその恩沢に

浴む。佳き硯は神の栄光の証である。


 栄光は只鋒鋩の妙に止まるのではない。神は資石に色調を含ませ、文采を

与え、眼を贈る。硯石はそれぞれにこれ等の美しい贈物を受ける。或は深紫

を愛し、緑石を好み、青花を讃え、活眼を語る。皆自然への讃歎である。硯

は只用いるのではなく、見つつ用いるのである。愛しつつ用いるのである。

これ等の美しい神の贈物が益々用を深めることを知らねばならぬ。

 だがこれがために本末を忘れて用を傷つけてはならぬ。若し色に過ぎたも

のがあるなら、華美に陥る。若し文が騒がしくば静けさを破る。若し眼に滞

るなら枝葉に走る。吾々は硯本来の面目を忘れてはならぬ。用を二次にして

は硯たる性質を失う。一義のことと二義のことを混じてはならぬ。用は硯の

使命である。他の諸々の性質は用を活かすものでなければならぬ。


 選ばれた石材は様々である。唐土に於いて、海東に於いて、本邦に於いて、

硯は質を追って求められた。その名を列挙するなら一冊子を編むことすら出

来よう。各々はそれぞれの特色に活きる。

 だが石質の硬軟、鋒鋩の良否、文采の多寡、色調の是非、その度を得て古

来声価を独り恣にしているのは端渓である。歙州その他名石はあっても、未

だ端渓の右に出づるものを見ない。羅紋の美性を云い張った画家もあるが、

その発墨の妙に於いて、文采の美に於いて、凡ての性を兼ね備えるのは端渓

である。硯と云えば畢竟は端渓、端渓あっての硯である。硯があって端渓が

見出せたとも云えるが、端渓あって硯が硯たることを得たとも云える。硯が

端渓か、端渓が硯か、もはや結び合った一つの言葉である。だから質を追え

ば端渓に尽きる。若し発墨が硯の生命であるなら、端渓を推せば事は終わる。

自然は硯の栄誉を斧柯山のその石に托した。


 だが端渓も一様の端渓ではない。好事家は細かな分類を追う。山坑があり、

水岩があり、洞によって色文を異にし、又時代によって更に取捨が分かれる。

概して云えば唐宋の山坑、明清の水岩。一つは男性、一つは女性。不思議で

あるが硯材も亦時代の影響を受ける。中で最も味わいの深いのは山坑宋端渓

である。文采色調共に渋く、発墨亦佳く、力内にこもる。久しく大西洞の如

き水岩が名を成したが、私は山坑の深きを遥かに好む。正に端渓中の端渓と

呼んでよい。有ち得るならその端渓を有て。造化の妙をここでしみじみと味

わうであろう。


 硯に向かえば直ちに厳そかな自然に向かう。石の創生は星が古いが如く古

い。歴史は遼遠であり静寂である。人間の世紀はその年次を数えるには余り

に短い。それは凡ての人事を越える。喜怒哀楽の世界を去った超脱の境地で

ある。そこでは感情が休む。石に誘われるのはこの深さがあるからである。

石には自然の哲理が潜む。

 東洋の画家達は如何に岩を描くことを好んだであろう。彼等は何よりもそ

こに自然の心を読んだ。あの一木一草をすら棄てて了った龍安寺の庭にも、

石だけは残されたではないか。不動な自然への信頼を、これ以上に示す道は

なかったであろう。石への敬念は永遠な静謐への念慮である。石を想うのは

そこに禅定の趣きを見つめるからである。その至境には悦びもなく亦憂いも

ない。乱れが心に満つれば石の境地には住みきれない。

 机上の硯は私達に静穏な心根を求める。自然と共に静かなれよとそれはい

う。


   中

 硯は何よりも石を求める。だが石が硯を求めたとも云える。硯がこの世に

なかったら、石はその美しさをせばめたであろう。硯で石は更に石の美しさ

を示した。硯で石がもっと石となったのである。

 だが石を硯たらしめ、硯に石を活かしめた者は誰であろうか。ここで人間

の技が天然の資材に交わる。石は神の御業であるが、これに形を与えるのは

人の技芸である。与えられた佳材もそのままでは硯に活きることが出来ぬ。

硯は石を招き、石は又人を招く。石と人との交わりに硯が生まれてくる。人

は自然に頼らずば力なく、自然は人を待たずば光りを得ない。質は自然の栄

光を示し、形は芸能の妙を語る。


 硯を求めるのは磨墨を求めるのである。用途はここで硯に形を与え、美し

さを誘う。形を幾つかの規定に導くのは用途である。硯は何故長方硯を正し

いとするか。磨墨のためにこれより自然な形相はないからである。だから硯

の美しさは長方形に於いて最も冴える。方硯、円硯、楕円硯等様々あっても、

長方硯の自然なるに如くはない。風字硯の美しさもこれに基づく。

 人は硯池を設け、墨堂を工夫し、周辺を刻む。その様々な形相は用が産む

創作である。用を離れて形はなく、形を離れて硯はない。美しさはこの必然

な結ばりから生まれる。若し用を怠るなら形は乱れるであろう。本を忘れて

装飾に走る品は醜いではないか。用を守るのは美しさを守るのである。


 だが形を定めるのは用のみではない。材料が形を呼び、重ねて工程が形を

招く。石質の硬軟、水分の多寡、形態の大小、これ等のことは自から形を左

右する。形とその線とは石と刀との交わりに任せて、或は鋭く、或は柔く、

或は堅い。これに加えて刀の形状、その種類、鈍鋭の差が刻と密接な関係が

あろう。而もそれ等がどんな使い方で用いられるか。石質と工程と用具と、

これ等の三つが結び合って形が多くの変化を受ける。

 それに刻む者の性情や時代の風潮が更に形を左右する。唐硯と和硯とは、

作られる材料が違い工程が違い、心境が違う。海東硯に至っては更に独自の

領域である。形の背後には一国の風土や習慣や気質が重要な役割を勤める。

硯も心の所産である。


 硯が石を招くなら、凡ての手法や形相は石としての性情を活かさねばなら

ぬ。形はどこまでも石としての形であってよい。石に活きてこそ硯が硯とな

るのである。形は材料から来る形でなければならぬ。だから石を仮に木の如

く、又金の如く扱うなら、形は誤るであろう。それは質材に叛く愚かな処置

に過ぎない。硯は石の有ち味をどこまでも活かさねばならぬ。硯に刻んで石

が益々石たるまでに作らねばならぬ。人間の工作は自然の栄光を示すことを

怠ってはならぬ。

 ここで形が硯の美しさの主要な役割を演じる。なぜなら紋様に於いてより

も、形に於いて石の有ち味が最も自由に現れるからである。硯が活くるも死

ぬるも形に依るのである。石としてはどこまでも質に、硯と成ってはどこま

でも形にその生命が宿る。形が誤るなら硯は硯としての美しさを有たない。

形の創造こそ人間の芸能の使命である。

 人はしばしば天然石を愛して、これに只堂や池を僅かに刻んだ。天然硯と

して珍重する者が少なくない。だが不思議であるが美しい場合が殆どない。

石としての形、直ちに硯としての形とはならぬ。天然石は謂わば「なま」で

あって、硯に煮つめられたものとは違う。硯としての美しさに欠けるのは当

然である。硯の形をとって石が更に石を現すことを忘れてはならない。天然

石より加工石の方が一段と石に深まる。石があるから硯となるというより、

硯があって石となるという方が真実である。天然石は未だ熟さない素材に過

ぎない。正しい形をとってこそ完き美しさに入るのである。天然硯は硯とし

て最も美しい硯たる資格を有たない。

 これに比べては硯板の方が硯に近い。一定の形をとるからである。だが未

だ完き形をとるものとは云えない。誤った形に落ちたものより遥かによいと

いうまでに過ぎない。その存在は消極的であって、進んで美しさを示すこと

が出来ない。硯はもっと硯としての形を求める。人間の技が交わらずば、佳

き質も亦光りを得ない。形なくば硯はない。


 だがここで多くの難事に出逢う。神の御業は無謬であるが、人間の所業は

誤謬が伴う。凡ての形が美しいと誰も保証することが出来ない。今の世では

佳い形を得ることは難中の難とさえ云える。詮ずるに形は人間の行いに属し、

全智全能の業たることが出来ない。正しい加工が自然を活かすが如く、誤っ

た加工は自然を涜すであろう。形のために醜い硯が如何に多いことか。端渓

が質に於いてどんなに見事であろうと、若し形が誤るなら頑石に等しい。硯

石は何も石質に於いてのみいうべきことではない。遺憾なことに醜い端渓が

如何に多く蔓延っているであろう。それは佳材への冒涜に過ぎない。形が貧

しいなら硯石の価値の大半を失う。それは発墨にすら影響があろう。汚く盛

られた食物が消化を助けないのと同じである。醜き形と佳き質、かかる組合

せは真実には有り得ないとさえ云える。正しい形を得ずば質も充分に質とは

ならぬ。質のみを見て形を問わないなら、質をも細かに見ているとは云えぬ。

形で質が活き又死ぬのである。発墨は物としては石に依るが心としては形に

依る。美しい形こそよき発墨を誘う。正しい形なくば硯はない。

 何が形を正しくする道であるか。ここでは法則は私達に告げる。美しい形

はいつも単純な姿であることを。単純さは石を活かす一番自然な道であるこ

とを。美しさは単純さに於いて最も厚く守られることを。それ故無紋硯こそ

特によく硯に適う。事実、美しい硯の殆ど凡ては無紋硯である。

 用に即すれば無紋より必然な形相はない。それ故無紋に石の美しさが最も

冴える。幅、長さ、厚み、そのよき配合さえあらば充分に美しい。形は自か

ら無地なることを求める。無紋硯は硯の中の硯と呼んでよい。用に発した古

硯には無紋のものが主であることを注意したい。紋様は概して明清の所産で

ある。「唐模宋範」というが、これは単純なる形への礼讃である。硯は無紋

なるを上々とする。


   下

 ここで私達は次の真理を受け容れねばならぬ。紋様は硯に対し二次的なも

のであることを。若し紋様を刻むなら、それはよい伴奏としてであって、主

体であってはならないことを。装飾の過ぎたもの、形の込み入ったもの、模

様の煩わしいもの、それは皆硯の美しさを痛める。如何に石質がよくとも、

周辺に硯池に紋様の過ぎたものは、硯としての美しさに乏しい。如何に度々

端渓や羅紋の如き名石が過剰な彫琢のために傷つけられたであろう。紋様硯

で美しいものは極めて少ない。あれば概して簡素なものに止まる。硯池を設

け周辺を刻めば、既にこれが何よりの紋様である。自然の文采、又好個の装

飾である。他に多くを要しないではないか。

 残月硯、蓬莱硯、海雲硯、龍池硯、神獣硯等々、様々に呼んで様々に刻む。

だが果たして無紋硯の美しさを越えたものがあろうか。労力は徒労に近い。

それ等は絵画的性質に陥り過ぎて、立体的な量の美を障げて了う。無地と美

とは却って交わりが深い。ものの美しさは凡てを含んだ無に最も多く現れ、

凡てを欠く有に最も貧しく消えてゆく。

 因にいう、硯を愛する者が、よく硯側に又裏面に銘文を刻む。だが果たし

て冒涜でない場合があったろうか。硯が美しければ美しいほど、そのままで

おきたい。


 明清この方、漸次紋様硯の流行に移る。技術的に見るなら驚くべき時期で

あったと云えよう。特に宮廷の御用品に於いてその極致に達した。技巧への

驚愕はしばしば品物への讃歎を伴う。だが技巧と美とを混同してはならぬ。

近づき難い技、必ずしも美しさを伴わない。否、多くの場合これ等の二つは

相反発する。なぜなら技巧は二次的なことであって、本質的なことではない

からである。精細な技巧はいつも複雑さを伴う。これが美しさとの交わりを

愈々至難にする。美は簡素なものと結縁が深い。技巧のために美が損なわれ

た場合は余りにも多い。技巧を弄んだ硯に、美しいものは有り得ないとさえ

云えよう。有紋硯が大概の場合、無紋硯に劣るのは、必然な結果に過ぎない。

芸能は美を現すためであって、無益な作為に落ちてはならない。工作は節度

の徳を守らねばならない。過ぎるならば罪に陥るであろう。

 これに反し稚拙な技、必ずしも醜い品に落ちない。それが自然である場合

は却って美しさを誘う。朴訥な人間の純良さと同じである。吾々は多くのよ

い例を朝鮮の硯に見かける。無心なものは罪からは遠い。美しさは罪を嫌う。


 一に石質、二に形相、三に彫琢、四に伝来、これを硯の四大条件と人々は

いう。だがこのうち伝来はしかく大きな条件であろうか。これで一つの意味

が加わるであろうが、硯そのものの価値とは違う。私達は伝来を省みるより、

もっとぢかに硯を見つめたい。伝来で硯を見るのは、硯そのものを見ない傾

きを伴う。伝来の聞こえたもの、必ずしも佳硯たるを保証しない。このこと

は畢竟二次的なことに過ぎない。茶器に於いて銘を見て物を見ない弊と相近

い。それは美の枝葉ではあり得ても根本ではあり得ない。伝来に滞る者は美

しさを見失う。人は直下に硯を見る力を養わねばならぬ。よくぢかに見得る

なら、醜いものは近づかないであろう。

 紋様の彫琢はいつも奢侈と結び合う。絢爛な生活は豪奢な装飾を好む。こ

こで彫琢の精緻を誇る作物が、競って彼等のために製作せられた。それ等の

ものが異常な尊重を招き価格を呼んだのは勿論である。多くの者はこの風習

を追って、漸次に有紋硯が隆盛を来した。そうして遂には美の標準が紋様の

精粗に置かれるまでに至った。多くの硯譜蒐集を見れば、如何に絵画的装飾

に盛られた豪奢な作物が尊重せられたかが分かる。

 だが奢侈を追うそれ等の硯に真に美しいものがどれだけあろうか。美の摂

理は不法を咎める。最も簡素な無紋硯に多くの美を托した。否、単純なもの

でなくば、美しく成り難いまでに法を定めた。私達はこの法則の意味を讃歎

してよい。若し異数なものでなくば美が現れないなら、それは特殊な少数の

ものに止まるであろう。だが尋常なものに最も厚く美が交わり得ることを知っ

てよい。この摂理あるが故に、美を一般的なものへ進め深めることが出来る。

 今日までとかく贅沢な品が即ち佳品であると考えられた。併し今後は寧ろ

質素な尋常な品に厚く美が保たれることを信じてよい。私達は特殊な少数の

人達に備える華麗な品に迷わずともよい。多く作れる簡単な品に大きな希望

を抱いてよい。このことは美の低下ではなく、却って美本来の性質に適う。

美しい無紋の名硯は私達を鼓舞してくれる。私達は単純な形に於いて、従っ

て少ない労力と費用とに於いて、充分美しい品を作ることが出来る。否、こ

のことなくして美しい硯は生めないことをすら信じてよい。あの質素な鮮硯

の姿を眺めて、多くの示唆を受けるではないか。私達はここでも民芸として

の硯に尽きない希望を感じる。


 座右という言葉がある。右に硯を眺めてこの親しい言葉に想い当ったので

はないであろうか。傍らを離れない一生の伴侶である。誰が記し初めたか、

硯を綴って「石を見る」と書く。それは自然を見、芸能を見る意味ではない

か。硯を見つめて、神と人との不思議なる業を想う。この業こそは凡ての美

の泉である。硯を見ることは美を見ることである。何よりこの世を美しくし

ようとて硯が工夫せられるのである。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 58号 昭和10年】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)

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